有馬記念の足音が聞こえ、気が付けば今年もあと一週間を切りました。
クリスマス?知らない子ですね・・・

今回は奈良・晩成高校とその周辺の気になるものについて書いていこうかと思います。
奈良1・晩成












晩成高校の名前の由来になったのは橿原市に実在する晩成小学校だと思われます。
ただし晩成という地名は存在せず、晩成小学校があるのは小房町という所。
元々は少し離れたところに「培擁館」という名称で明治7年に開校し、その後現在の場所に移設してから「大器晩成」を願って晩成小学校と名付けられたそうです。
(参考出展:橿原市立晩成小学校HPより学校長あいさつ

地名ではこれ以上出てこないので、晩成関連での小ネタを2つ程。

・晩成小学校の像
晩成小学校小学校には谷三山さんという方の座像があるようです。
(参考出展:大和八木通信様・晩成小学校の思い出
谷三山さんは幕末の儒学者で生涯を八木村(畝傍駅の晩成小学校がある方向とは反対側にあります)で過ごし幼少期に聴覚を、後に視覚も失いながらも私塾を開き教えを説いていたそうです。
頼山陽や吉田松陰とも交流があり、この時期の大和を代表する人物だったとか。
(参考文献:八木まちづくりネットワーク様・谷 三山 (たに さんざん)と書籍
咲の中で晩成高校は偏差値70の進学校と言われていますが、その源流には晩成がある八木一帯の教育への意識の高さ?というものがあるのかもしれません。

・小走さんと当麻蹶速(たいまのけはや)
姓名分布&ランキング様で小走さんの苗字を調べてみると、全国で51件あってその内31件が奈良県にいらっしゃるそうです。
その奈良県内の小走さんのうち半数以上がいらっしゃるのが葛城市。都道府県の特徴的苗字一覧様の奈良県の一覧にも小走さんが葛城市に多くいらっしゃると書かれています。
ばんせい2







その葛城市に當麻という所があるのですが、ここは日本書紀に書かれている当麻蹶速が住んでいたとされています。
その日本書紀によると当麻蹶速はこの地の力自慢で連戦連勝だったとか。そこで次の対戦相手を探していたところに垂仁天皇が連れてきたのが出雲に住んでいた野見宿禰(のみすくね)という男。
2人が闘ったところ当麻蹶速は負けてしまいました(背骨を折られて死んでしまったという話も)。
この2人の闘いが後に相撲の始まりとされ、共に相撲の神をして桜井市にある相撲神社に祀られているそうです。
小走さんと当麻蹶速の関連性とか何かあるかどうかは後で考えようかなと思います。

今回はここまで。
できれば暮れに小ネタ的なものを1つ書いて年を越せたらいいのですが、さてどうなるやら。
それでは。