成人の日並みの大雪になると言われてましたが、自分のところはほとんど積もりませんでした。

今回は佐賀県代表・能古見高校の説明になります。
1回戦で清澄と当たった他3校のうちの1校です。

高校の名前の由来になった地名は昭和29年まで存在していた藤津郡能古見(のごみ)村からとられています。
昭和29年の4月に能古見村を含む2町3村が合併してできた鹿島市の山浦・三河内地域が能古見村だったと言われています。
能古見1
鹿島市は佐賀県の南部にあります。
能古見4
山浦・三河内地域はおおよそこの位置。
鹿島市の山側の辺りのおおよそ半分は旧能古見村地域のようです。
能古見5
現在でも小学校や郵便局などで能古見の名前が残っていますしこの地域にある馬場酒造場さんが能古見というお酒を作っておられたりもします。

で、この旧能古見村に当たる地域にお酒以外に何かあるかなと探すと2つ面白いものがありました。
1つは浄土山と呼ばれる標高500m程の山。
この山の山頂に鹿島藩(佐賀藩の支藩)十三代藩主の鍋島直彬が書かれた「浄山」の2文字を彫った岩が設置されています。
この鍋島直彬さんというお方、鹿島藩最後の藩主で明治になってからは天皇陛下の側近として仕え初代の沖縄県令に就任したり貴族院議員に第1回帝国議会選挙で選出されてから4度再選されたりしていました。
また晩年には山浦地域に隣接する納富分地域にある誕生院(新義真言宗の開祖・覚鑁さんの生誕の地に建てられた寺院)の復興にも携わっていました。
浄土山は他にも「しずく石」と呼ばれる岩と岩の間に1m程の岩が挟まっている巨石(鍋島直彬さんが浄土山で夕立にあった際に雨宿りとして使われたという説があります)があります。
また浄土山の周辺には十三佛や蓮厳院の岩屋観音もあり、偶然か必然か真言宗と関わりのあるものが多くあります。

もう1つは面浮立(めんぶりゅう)と呼ばれる県の重要無形文化財にもなっている民族芸能があるのですが、これの発祥が鹿島市(七浦音成地区や母ヶ浦《ほうがうら》地区)だそうです。
能古見にも三河内地域の浅浦地区でこの面浮立が行われています。
浅浦の面浮立

浅浦の面浮立の概要をお借りして説明すると

浅浦面浮立は今から約400年前の戦国時代豊後の国大友軍に攻め入られ苦戦に陥った時、肥前の国竜造寺家の家臣が鬼の面にしゃぐまをつけ鉦、太鼓に合せて敵軍に攻め入り見事勝利を収め、その戦勝祝いに踊ったことに始まると伝えられています。
浅浦地区では秋の彼岸の中日9月23日に毎年部落の年中行事として面浮立を踊ります。まず第1に古湯堤に祀ってある水神社に奉納、今年も堤の水のお陰で稲が順調に育ってくれましたとお礼参りをします。それから部落の氏神様である救世神社、先祖の霊を祀ってある元光寺、円福寺に奉納し又家内安全、五穀豊穣への感謝を込めて地区内数十箇所で奉納します。最後に戦没者の霊を祀ってある忠魂碑の前で奉納し一日を終了します。 
情報出典:鹿島市公式サイトより

この浅浦の面浮立のゴールになっている救世(くせ)神社は能古見小学校浅浦分校に隣接していて神社の境内が校庭として使われてる少し珍しい光景が広がっています。
能古見高校のモデルor麻雀部の部室のモデルになっていそうな風景です。

余談ですがこの能古見から武雄市の永松地区に面浮立が伝承され、それを踊っている時の様子を描かれた絵馬が佐賀県の有形民俗文化財に指定されています。
面浮立絵馬

今回はここまで。
今後、今は実在しないかつての地名という場所も増えていくと思います。
掘り返して何か出てくればいいのですが・・・。
次回の地名の説明は九州最後、福岡県代表・新道寺女子高校ですが同時にマイヒメコンビの出身中学である佐賀・生立ヶ里中学も少し説明に入れたいと考えているので時間がかかると思います(説明がなかった場合はごめんなさい)ので小ネタを少なくとも2回挟むと思います。(3回になるかも)
それではまた(´・ω・`)