何の変哲もない咲の地名紹介

動画を作ったもののブログ版です。さらにわかりづらくなるかも。最近は地名紹介以外の小ネタも多くなってます。文章がgdgdなのは仕様です。当面は不定期更新です。

April 2013

愛媛県代表・大生院女子と戒能プロ

パソコン買い換えました。
その日に自転車を壊されました・・・。
まだ新巻買えてません・・・。
新巻買う前にお財布の中身がスッカラカンとかそんなん考慮しとらんよ・・・。

今回は愛媛県代表の大生院(おおじょういん)女子と大生院女子出身の戒能プロについて書こうと思います。
大生院1












由来となった地名は愛媛県新居浜市大生院。
新居浜市は愛媛県の東部に位置する市で住友グループが発展した礎となる別子銅山があるなど工都新居浜と呼ばれています。
県内3位の人口の多さで、新居浜市出身の有名人も藤田元司さん(野球)・福西崇史さん(サッカー)・鴻上尚史さん(演出家)・石丸幹二さん(俳優)・水樹奈々さん(声優)など多数おられます。
大生院2












大生院はこの位置。
新居浜市の西側にあり西条市と隣接しています。
この辺りは昭和30年まで新居(にい)郡大生院村という村でした。
この大生院という地名は、この地にある正法寺というお寺の別名(正法寺の前の名前?)である「往生院」から名付けられたと言われています。
(参考出典:真言宗御室派石鉄山正法寺様「正法寺の歴史」

この大生院は黒森山の中腹までが領域なのですが、この黒森山の先に笹ヶ峰という山があります。
この笹ヶ峰は石鎚山脈の山で山頂には蔵王権現と不動明王が祀られている修験道の山で昔はこの笹ヶ峰が石槌山と呼ばれていたという説もあります。
ふと思ったのですが、最近調べた地名には修験道に関わりのある場所が多い気がします。
この笹ヶ峰を調べている時にこの山を登った方のブログを多数見かけたのであちこち覗いてきましたが、壮観な写真がいくつもありました。
ちなみに山頂付近は森林限界を超えるようです。

続いてOGの戒能プロについて。
戒能さん
























名字の戒能は平安末期頃~戦国時代まで松山周辺を統治していた河野氏(元寇{弘安の役}の「河野の後築地」で名を馳せた河野通有など)の配下の武将だった戒能氏から取られたものと思われます。
このことから、戒能プロは大生院より松山に縁がある人物であると推測できます。
松山市に隣接する東温市にはこの戒能氏一族の庵があります。
ここには戒能氏一族のお墓が建てられているのですが、その片隅に墓守桜と呼ばれているかなり古い一本桜があります。
この桜は大通庵エドヒガンザクラとして市のHPや雑誌でも紹介されるようです。
戒能プロといえば、永水女子の滝見さんと従姉妹同士という間柄。
永水女子の5人の名字は日本五大桜から付けられているというのは咲-Saki-ほんだし様のサキビアの泉など多くのブログ様で記事になって広まっているのですが、滝見さんの元になっている福島の三春滝桜とこの戒能氏の大通庵に咲く墓守桜は種類が同じエドヒガン系の桜だったりします。
もっとも、三春滝桜の他に神代さんの元である山高神代桜と薄墨さんの元になっている根尾谷の淡墨桜もエドヒガン系なのであまり特別なものでは無いのですが・・・。

もう1つ、戒能プロは長野県の生まれで愛媛に来たという設定になっているのですが、これは法学者で小繋事件(岩手県二戸郡一戸町小繋で起きた約50年闘争が続いた事件。この辺りにはIGRいわて銀河鉄道小繋駅があり、一つ先の小鳥谷{こずや}駅の近くには姉帯さんの名字の由来になったと思われる二戸郡一戸町姉帯がある)では農民側の弁護人になった戒能通孝さんという方が長野県出身で本籍が東温市が出来た際に合併した町の1つである川内町だったことがモデルになっているのでは・・・?と考えています。
なお、戒能通孝さん自身は愛媛に足を踏み入れたことがなかったそうです。
(参考出典:(8)戒能氏のルーツを訪ねて

(5月18日追記)
立さんのHPにより、戒能プロの生まれが長野というのがカードの誤植だったことが判明しました(´・ω・`)

今回はここまで。
大生院より戒能さんの方がメインになった感じがしますが気にしない方向で。
次回は一旦近畿に戻って荒川さんの三箇牧高校の紹介をしようかな・・・と考えています。
それではこの辺で。

広島県代表・鹿老渡高校

個人的な調べ物でドスパラ様のパーツの犬というブログのこの記事を見てたら咲ネタで締めてて笑ってしまいました。

ささの











今回から中四国の紹介がメインになるのですが、その1回目は広島県代表・鹿老渡(かろうと)高校です。
ちゃちゃのんこと佐々野いちごさんがいた高校ですね。
鹿老渡1












由来となった地名は広島県呉市倉橋町鹿老渡。
鹿老渡は○で囲ってある倉橋島の南端にある地区で2005年に呉市に合併されるまでは安芸郡倉橋町として広島県最南端の町でした。
この倉橋町、1889年の市町村制が施行されてから2005年の合併まで116年間合併することもされることもなく続いた自治体だったそうです。
(1952年6月まで倉橋島村。それ以降は倉橋町と名称の変更はありました)
倉橋島は北側が旧音戸(おんど)町、南側が旧倉橋町で音戸町出身の有名人に島谷ひとみさんや城みちるさんがおられます。
また、倉橋島の出身ではない(と思われる)のですが、松来未祐さんも呉市の出身でその辺りも「ちゃちゃのん役は松来さんで」という声が多い一因になっているのかもしれません。

鹿老渡2












赤い○で囲ってあるのが鹿老渡です。
倉橋島とその南にある鹿島を繋ぐような場所にあり、県道35号線音戸倉橋線の終着点でその先にある鹿島大橋を渡ると鹿島に渡ることができます。

鹿老渡3














鹿老渡は山と山の間に挟まれたような場所に集落があります。
昔は小学校があったようですが平成9年に廃校になってしまいました。
この集落、碁盤の目のようにきれいに区割りされているのですがこれは江戸時代に企画・整備されてからずっとこの形を維持していたようです。
江戸時代にこの辺りを行き交う船舶との商売や潮待ちによる宿泊などを目的として作られたとされていて、天明元年(1780年)の鹿老渡の地図が旧倉橋町役場に現存されていたそうです。
現在もどこかに保存されているのかな・・・?
整備されてからかその前からかはわかりませんが、九州の大名が参勤交代の折にこの鹿老渡に立ち寄り潮待ちをしていたとか。
特に日向の大名と繋がりが深かったようで、この地で材木の取引をしていた宮林家は大名の本陣として宿泊されていたようで現在も民宿としてこの宮林家の建物が残っています。

今回参考にさせていただいたサイト様の写真を見てると、非常に景色の良い静かな港町という印象を受けました。
のびのび育ったんでしょうねぇ、ちゃちゃのん。

参考出典
のんびり屋の瀬戸内めぐり様「鹿老渡(倉橋島)」
えいちゃん笠岡を走りまくる様「鹿老渡①」
そぞろ歩き様「鹿老渡~倉橋島」
ひろしま文化大百科様「鹿老渡と本浦」宮林家住宅

今回はここまで。
次回は四国。おそらく戒能さんの大生院女子の予定です。
おそらく来週になるかな?
それでは。

三重県代表・宇気郷高校と少し雑感

今日は地震が多くて怖いですね・・・。

今回は三重県代表・宇気郷(うきさと)高校の紹介です。
由来となった地名は昭和30年まで存在した一志郡宇気郷村で現在の松阪市柚原町・後山町・与原町・飯福田町・嬉野小原町・嬉野上小川町が宇気郷村だったと言われています。
宇気郷2












松阪市は三重県の中部にある都市で合併を繰り返した結果、現在は伊勢湾に面した地域から奈良県との県境(宇陀村・東吉野村)に接した地域まで及び県内では津市に次ぐ2番目に面積が広い自治体になっています。
宇気郷村があったのはおおよそ小さく丸をしてある辺りです。
宇気郷1













宇気郷村は昭和30年に合併によって消滅したのですが、その際に東部の柚原・後山・与原・飯福田地区は松阪市に、西部の小原・上小川地区は当時の周辺地域だった村々と合併し嬉野町に編入されました。
この嬉野町も2005年に松阪市と合併したため、一度2つに分かれた宇気郷村は現在はまた1つになっています。

この地域には嬉野小原町に宇気郷小学校があったのですが、1991年に休校・2004年に廃校になってしまいました。
この小学校は現在公民館として利用されているそうで、宇気郷地域の自動はスクールバスで松阪市立豊地小学校に通っているようです。
参考出典:松阪市立豊地小学校

最近では今年公開された映画「きいろいゾウ」のロケ地にもなった宇気郷ですが、この地域に飯福田(いぶた)寺という寺院があります。
この飯福田寺、701年に役小角が開基した霊場で金剛峯寺や吉水神社も名を連ねている役行者霊蹟札所会にも紹介されている霊場です。
役小角といえば、阿知賀女子の大将にして阿知賀編の主人公である穏乃と関連があるのでは?とまとめアンテナ様で紹介されている他のブログ様でも多くのすばらな記事にて紹介されている方です。
ちなみにこの701年というのは699年に流罪で伊豆島に流されていた役小角に大赦があった年であり、また大阪の箕面にある天上ヶ岳で入淑(死去)した年であるとされています。
参考出典:役小角
おそらくこの飯福田寺は役小角が伊豆島から生まれ故郷の葛城に帰る際に開かれた霊場なんだと思います。


こうして見てみると近畿+三重の出場校は吉野・熊野に大なり小なり接点があるものがいくつかあるなぁ・・・と。
今回の宇気郷の他にも京都の八桝には北大峯と呼ばれた峰定寺が、和歌山の和深には熊野の丸石信仰が伝わる徳大明神社があります。
他には私的素敵ジャンク様のこのすばらな考察記事にて紹介されている怜の名字の元になっている滋賀の園城寺も少し吉野と接点があって、この寺を開基した大友与多王の父親・大友皇子(弘文天皇)が大海人皇子(後の天武天皇)と敵対して壬申の乱が起こるのですが、その直前(天智天皇が崩御される直前)に大友皇子を推挙して大海人皇子が出家を申し出て下ったとされる場所が吉野であると言われています。
かなり薄い接点ですが・・・。

今回はここまで。
地名紹介は次回から中四国をメインに他所も少しつまみ食いしつつ進行していく予定ですが、次回は小ネタの記事になります。
おそらく今週中に更新できるかなぁ。
それでは、地震の被害が無いことを祈りつつ。

滋賀県代表・富之尾高校

QHKQK(急に配信が来たので急に更新)
明日15話がニコ動で配信されるということを知ったのが昨日。
というわけで、今回は滋賀県代表・富之尾高校の紹介です。

富之尾1













由来となった地名は滋賀県犬上郡多賀町富之尾。
多賀町は滋賀県東部にある町で西側は琵琶湖に程近い平野部、東側は鈴鹿山脈の西麓にあたり岐阜・三重両県の県境に接しています。
富之尾2













富之尾は西側の平野部側にあります。
tyutaの咲-Saki-ブログ様のこの記事で紹介されているように「けいおん!」の聖地豊郷小学校の旧校舎がある豊郷町が近くにあります。

富之尾に何かあるかな・・・と探したところ「大瀧神社」という神社にあたりました。
この大瀧神社は「滝の宮」として親しまれ、多賀町の名前に通じているとされる多賀大社の奥宮という位置づけの神社で鈴鹿山脈から多賀町を流れて琵琶湖へ注ぐ犬上川のそばにあります。
この大瀧神社の社前の辺りの犬上川の渓谷は「大蛇の淵」と呼ばれ、秋になると紅葉のライトアップが行われたりする景勝地にもなっています。

この大瀧神社には「犬胴松」という今は枯れてしまった松があるのですが、これには伝承のような話があります。

その昔、犬上・式部二族と云われます稲依別王命は、日頃より猟を好まれ猟犬小石丸を引き連れ山間を徘徊されていた処、偶々この渓谷の淵に往来の人々に危害を加える大蛇がいる事を聞き及び、退治せんものと愛犬を伴い渓谷を探し続けた。
七日七夜を過ぎ、仮眠中の危急を知った小石丸が吠えたてる事頻りなれば、命は怒り、腰の剣で一刀のもとに愛犬の首をはねると、首は岩影より命に襲い掛からんとする大蛇の喉にしっかり咬みつき、大蛇は遂に淵に落ち悶死せり。命は大いに驚き、この愛犬忠死に深く感銘し祠を建て之を祀り給う。 これ犬咬明神である。
斯くして命を救った忠犬の霊を犬胴塚に葬り、其処に松を植えられたのが犬胴松である。 今は枯れ果てその面影を残すのみであったが、お堂を建立してその霊をお祀りするものである。

参考出典:延喜式神社の調査様「大瀧神社」
この稲依別王命(いなよりわけのみこと)は日本武尊の子で後にこの辺りを本拠とする犬上氏の祖先とされています。
犬上氏には最後の遣隋使及び最初の遣唐使を務めた犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)がいます。
ちなみにこの犬の頭の部分が祀られている場所は諸説あり、大瀧神社から大蛇の淵を挟んだ対岸に祠を建てた説や豊郷町にある犬上神社がそれだという説があったりします。

今回はここまで。
次回は近畿地方をやった流れでお隣の三重県代表・宇気郷高校の紹介をする予定でいます。
そのあとは・・・近畿を中心にやるために飛ばしていた中四国をやりつつ他所もつまみ食い的に紹介という流れになるかなぁ・・・。
それではこの辺で。
明日は15話見るぞー。

京都府代表・八桝高校

地名紹介の記事は3週間ぶりになります。
今回は京都府代表・八桝(やます)高校の紹介になります。
八枡1














由来となった地名は京都府京都市左京区花脊八桝(はなせやます)町。
左京区は京都市街地の東北方、鴨川の東岸から北方の鞍馬などの山間部を含む広大な面積を有し、滋賀県と隣接する場所にあります。
八桝2












花脊八桝町はその山間部、府道38号線をひたすら北上したところにあります。
途中、鞍馬寺を通りすぎますが、そこからぐんぐん山道を登っていきます。
どんな感じなのかは

この府道38号線を走破した車載動画を見ていただければ大体の雰囲気は掴めると思います。
八桝を含む花脊地区はPart1の後半からPart2の冒頭辺りに出てきます。
この花脊地区は昭和24年に京都市左京区に編入合併されるまで愛宕(おたぎ)郡花脊村という村でした。
八桝3














範囲としてはおおよそこんな感じ。
八桝を含め4つの地区があって、現在も「花脊○○町」という形で残っています。
八桝自体はあまり目立ったものが無く(花脊山村都市交流の森という施設がある程度)で八桝小学校という学校があったのですが、こちらも2007年に廃校になってしまったようです。
ただ、八桝の北にある花脊原地町にある大悲山峰定寺(だいひざんぶじょうじ)というお寺が少し繋がりがある感じなので併せて紹介しようと思います。

峰定寺は1154年に鳥羽上皇の勅願により西念という僧が創建した修験道系の山岳寺院で、本堂や仁王門の造営には信西(藤原通憲)と平清盛が当たったと言われています。
西念自身が大峯山や熊野で修行を積んだ修験者で、大悲山の中にも行場が点在し古くから修行の場であったことから「北大峯」と呼ばれていたそうです。
元々、この峰定寺が出来る前からこの辺りは「北方浄土」と言われていたそうで昔からそういった山岳信仰の対象として崇められていたようです。
大峯山は広義では阿知賀の舞台となった吉野山を含む大峰山脈を指すと場合もあるそうで、その吉野と熊野を結ぶ修行のための道として大峯奥駈道という道もあります。
峰定寺は一時期荒廃していたものの江戸時代に再興されそれ以降は同じ左京区にある聖護院の本山修験宗の寺院になったそうです。
ちなみに、この聖護院を創建したのが園城寺の僧だった増誉。
左京区には、高鴨神社を総本社とする賀茂神社の1つである下鴨神社もあります。

峰定寺の境内には「俊寛僧都供養塔」というものがあります。
俊寛は平安時代後期の僧で鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流されそこで命を絶ったと言われています。
実はこの俊寛が流された後、妻子が身を隠し、また妻子ともに亡くなったとされるのがこの大悲山周辺であったそうで、それが俊寛の供養塔がこの峰定寺に建てられた理由だと思われます。
この鬼界ヶ島の場所というのも諸説あって、その中にある鹿児島県の喜界島・硫黄島は永水女子の滝見さんの出身地と言われています。(参考出典:咲-Saki-ほんだし様「サキビアの泉」)

この峰定寺、日本最古の舞台造り(懸造り)で建てられた建築物だそうです。
ちなみに積雪の関係で12月~3月は閉門されています。
また、4月~11月の間でも悪天候時は入山不可、子供や20名以上の団体も入山不可という厳しい決まりがあるようです。
訪れる機会がある方は御注意を。

今回はここまでです。
八桝は阿知賀・千里山・永水女子と繋がりがある場所・・・かもしれません。(千里山はかなり強引ですが)
次回は近畿のラスト、滋賀県代表・富之尾高校の紹介の予定です。
それでは。

今回の記事の参考出典
京都観光Navi様「観光ルート:花背から大悲山へ」
平家物語・義経伝説の史跡を巡る様「大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔) 」
京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内様「峰定寺(ぶじょうじ) 」
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